「出雲大社は昔、今の倍の高さがあった」
そんな話をテレビやネットで目にして、「まさか」と疑いつつもワクワクしていませんか?
その「まさか」は、2000年の発掘調査によって「歴史的事実」へと変わりました。
一級建築士である私が、発掘された巨大柱と古文書の設計図を照らし合わせ、平安時代の出雲大社がいかにして48mもの高さを実現し、そしてなぜ倒壊したのか、その全貌を解き明かします。
この記事を書いた人
古代建築探偵・ヤスシ 歴史建造物復元リサーチャー / 一級建築士
日本建築史、木造構造力学、遺跡発掘データの解析を専門とする。「ロマン」を「科学」で裏付ける案内人として、各地の城郭や寺社仏閣の復元プロジェクトに関わり、工学的視点から歴史ミステリーを解読するブログが人気。
「雲太和二京三」は誇張ではなかった。平安時代の高層ビルランキング
まず、当時の出雲大社がどれほど巨大だったのか、具体的なデータから見ていきましょう。
平安時代の貴族たちの間で使われていた教科書『口遊(くちずさみ)』には、当時の日本の高い建物ランキングが記されています。
「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」
これは、以下の順位を表しています。
- 雲太:出雲大社(出雲国)
- 和二:東大寺大仏殿(大和国)
- 京三:平安京大極殿(山城国)
この記述は長らく、出雲大社の神威を高めるための誇張表現だと考えられてきました。
しかし、2位の東大寺大仏殿(当時の高さ約45m)よりも高いということは、出雲大社は少なくとも45m以上あったことになります。
社伝によれば、その高さは16丈(約48m)。
これは現代の15階建てマンションに匹敵する高さです。
木造建築で、しかもクレーンのない時代にこれほどの高さを実現していたとは、にわかには信じがたい話でした。
しかし、このランキングが単なる語呂合わせではなく、正確なデータに基づいていたことが、ある発見によって証明されることになります。

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伝説が真実へ。発掘された「宇豆柱」と「設計図」の奇跡的な一致
2000年、出雲大社の境内から、歴史を覆す大発見がありました。
本殿の南側から、巨大な柱の跡が見つかったのです。
それは、直径約1.35mの杉の大木を3本束ねて、直径約3mもの1本の柱にしたものでした。
この柱は「宇豆柱(うずばしら)」と呼ばれています。
直径1.35mの柱が3本束ねられた跡が、こちら ↓ ↓ ↓

この発見がなぜ重要なのか。それは、代々出雲大社の宮司家に伝わっていた一枚の設計図との関係にあります。
その設計図の名は、「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」。
この図面には、本殿を支える9本の柱の配置や太さが詳細に描かれており、特に中心の柱(心御柱)については「三本束ねにする」と記されていました。
発掘された宇豆柱は、この金輪御造営差図の記述と、位置・太さ・構造のすべてにおいて完全に一致したのです。

この瞬間、48mの巨大神殿は「伝説」から「史実」へと変わりました。
宇豆柱という物的証拠が、金輪御造営差図という文献の正しさを証明したのです。
【構造解剖】15階建て相当の木造建築は、どうやって建っていたのか?
では、具体的にどのような技術で、この巨大建築は支えられていたのでしょうか。
一級建築士の視点から、その驚異の構造を解剖します。
1. 三本束ね(金輪造営)の知恵
中心となる心御柱(しんのみはしら)をはじめ、本殿を支える9本の柱はすべて、3本の巨木を束ねて作られていました。
なぜ1本の巨木ではダメだったのか。
それは、直径3mもの太さを持つ木材を入手することが困難だったからだけではありません。
複数の木材を束ねることで、木の反りや割れといった欠点を補い合い、強度を高める効果があったからです。
また、隙間なく束ねて鉄の輪で固定することで、巨大な荷重に耐える剛性を生み出していました。
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2. 天空へ続く「引橋」
高さ48mの本殿へは、どうやって登っていたのでしょうか。
その答えは、長さ約109m(1町)にも及ぶ巨大な階段、「引橋(ひきはし)」です。
想像してみてください。
神職たちは毎朝、ビルの15階に相当する高さまで、この急勾配の橋を渡って祭祀に向かっていたのです。
この引橋自体もまた、巨大な柱によって支えられた高架構造物であり、本殿の威容をさらに際立たせていました。

なぜ神殿は巨大だったのか?歴史・信仰・技術から読み解く3つの説
なぜ古代の人々は、莫大な労力と技術を投じてまで、これほど巨大な神殿を建てたのでしょうか?
専門家たちは、主に以下の3つの説を挙げています。
- 神威の象徴としての高さ: 高い場所に神を祀ることで、その偉大さや神聖さを視覚的に表現し、人々を圧倒する狙いがあった。
- 宗教的・政治的優位性の誇示: 当時の出雲は、大和朝廷(奈良や京都)と並ぶほどの勢力を誇っていました。巨大な神殿は、出雲の独立性や権威を示すためのシンボルだった可能性がある。
- 出雲神話との結びつき: 天の神々が地上に降り立ったという「天孫降臨」など、出雲の地は神話と深く結びついています。巨大な神殿は、神話の世界を建築物として再現しようとしたのかもしれません。
現代に蘇る「天空の神殿」:体験できる古代のロマン
この巨大神殿の姿は、現代のCG技術や模型によって再現され、見る者を圧倒する迫力で古代のロマンを伝えています。
- 出雲大社境内: 実際に発掘された巨大な柱の一部を再現した模型が展示されており、その巨大さを肌で感じることができます。
- 古代出雲歴史博物館: 出雲大社の歴史や神話、そして古代の建築技術に関する詳細な資料が展示されています。この博物館を訪れることで、出雲信仰の深層に触れ、巨大神殿の謎をより深く探求できます。
なぜ何度も倒れたのか?大林組が検証した「工学的限界」
しかし、この巨大神殿には致命的な弱点がありました。
平安時代(1031年〜1248年)の間だけでも、少なくとも6回の倒壊記録が残っています。
なぜ、これほど頻繁に倒れたのでしょうか。
大手ゼネコンの大林組によるプロジェクトチームが、現代の構造計算を用いて検証を行いました。
その結果、驚くべき事実が判明しました。
「理論上は建つが、強度はギリギリだった」
48mの木造建築を建てること自体は可能ですが、風や地震に対する余裕(安全率)がほとんどなかったのです。
特に、日本海側特有の強風による「風揺れ」が、構造体に深刻なダメージを与え続けました。
現代の建築基準法では、絶対に許可が下りないレベルの設計です。
それでも古代の人々は、倒れるたびに再建し、天を目指しました。
そこには、技術的な合理性を超えた、「神に近づきたい」「大きな社で神威を示したい」という強烈な宗教的執念があったのです。
倒壊という事実は、技術の敗北ではなく、限界への挑戦の証と言えるでしょう。
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: 出雲大社の歴史を見る際は、「完成した姿」だけでなく「倒壊と再建の繰り返し」に注目してください。
なぜなら、安定した建物を造る技術がありながら、あえてリスクを冒してまで巨大化を求めた点にこそ、当時の政治的・宗教的な背景(大和朝廷への対抗意識など)が色濃く反映されているからです。この視点を持つと、歴史の深みが変わりますよ。
まとめ:古代人の夢の跡。次回の出雲旅で見るべき「赤い円」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
高さ48mの出雲大社は、決して空想の産物ではありませんでした。
それは、発掘された宇豆柱と金輪御造営差図によって証明された、紛れもない史実です。
現在の出雲大社の境内には、発掘された宇豆柱が見つかった場所に、その大きさを実寸大で示した「赤い円」が描かれています。
次回、出雲を訪れる際は、ぜひその赤い円の上に立ってみてください。
そして、そこから48mの空を見上げ、古代の人々が見た景色と、彼らが込めた熱い想いを感じてみてください。
きっと、今までとは全く違う出雲大社の姿が見えてくるはずです。
出雲大社の48m巨大神殿とエジプト・ピラミッドの共通点を建築・蛇信仰・太陽信仰から考察。死と再生を結ぶ古代の祈りを読み解…
参考文献
